小田野直武と秋田蘭画

小田野直武

小田野直武(おだのなおたけ)(1749~1780)

小田野直武は秋田県角館町裏町に生まれる。

1773年、平賀源内が鉱山開発の指導のため秋田藩を訪れた際、直武に出会い、西洋画の手ほどきをしたと伝えられる。翌年『解体新書』の附図を描くことになる。直武は、秋田藩主佐竹曙山、角館北家の佐竹義躬などと遠近法や陰影法をとり入れた洋風画を描き、司馬江漢などにも影響を与える。1779年、32歳で早世する。

後年、洋風画として他に先んじたゆえに秋田蘭画の祖と称され注目されるようになる。

秋田蘭画

1773年に秋田藩の鉱山検分のため秋田に招かれた本草学者平賀源内が、秋田藩士角館給人であった小田野直武の画才を発掘。源内は直武に、陰影法や透視遠近法などの洋画法の知識を与えたとされる。

直武はすぐに、秋田藩主佐竹義敦(号曙山)、同藩角館城代佐竹義躬といった君主にこの洋画法を伝えた。この後、田代忠国、荻津勝孝といった秋田藩士らも影響を受け、洋風表現の作品を描いている。

彼らによって安永~天明年間(1772~1788)にかけて展開された狩野派や南蘋派の漢画にこの陰影法や遠近法を加えた折衷画体の絵画を総称して秋田蘭画とよぶ。

秋田蘭画の中心人物とも言える曙山と直武が相次いで若死にしたこともあり、秋田蘭画の隆盛は続かなかったが、同画の流れは江戸の洋風画家司馬江漢に受け継がれ、さらに洋画的に改変され、のちに江漢を通して須賀川の洋風画家亜欧堂田善に影響を及ぼしている。

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仙北市立角館町平福記念美術館