平福父子について
平福穂庵
平福穂庵(ひらふくすいあん)(1844~1890)
角館町に生まれる。父文浪から絵を習う。
16歳の時京都に遊学。明治13年第3回秋田県勧業博覧会に「乞食」を出品、1等を受賞し注目される。明治23年には第3回内国勧業博覧会で「乳虎」が妙技2等賞を受け、中央画壇で確固たる地位を築く。

主な作品

絹本着色 軸装 128.7×41.0

絹本着色 軸装 127.0×57.2
平福百穂
平福百穂(ひらふくひゃくすい)(1877~1933)
角館町横町に生まれる。穂庵の第4子。
川端玉章に学ぶ傍ら、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科選科を卒業。絵画における自然主義、写実主義を主唱。大正6年「豫譲」が文展特選。帝国美術院会員。東京美術学校教授。アララギ派の歌人でも知られ、歌集「寒竹」がある。

主な作品

屏風 六曲一双 絹本裏箔着色 各172×374.7
第11回文展特選
『史記』刺客、豫譲伝によれば、豫譲は紀元前五世紀、中国戦国時代の晋の人。
はじめ仕えた主人の元では名はあがらなかったが、智伯に仕えて初めて認められる。ところが智伯は趙襄子に殺され、その身内も皆殺しにされてしまう。豫襄は主人の復讐を謀るが、捕らえられ、釈放される。
しばらくして豫襄は、体に漆をぬって癩病のふりをし、墨を飲んで声を失い、乞食に身をやつし、馬車で外出する襄子の仇討ちの機会をねらう。あるとき、趙襄子の馬が驚くので、豫襄がいることを直感し、調べさせると、果たして橋の下にかくれていた。
襄子は、豫襄に「智伯はおまえのかつての主人を殺したというのに、その仇を討たず、なぜ臣下とまでになったのか。」と問うと、「前の主人は自分を凡人として扱ったが、智伯は、国士として接してくれた。」と答える。「おまえの忠義、われの寛容、それぞれ面目も立った。しかし今度はどうするのかよく考えよ。われも二度も釈放はできない。」と言われる。豫襄は恨みを残さないと約束し、譲りうけた襄子の衣を三たび躍り上がって切りつけ、自殺して果てる。
百穂歌碑
百穂歌碑は、百穂の七回忌にあたって、川合玉堂、鏑木清方、結城素明、川端龍子、田口掬汀が発起人となり、昭和14年9月に建立したものである。
上部に田口省吾の描いた百穂の半身像を刻み、その下に川端龍子筆の「百穂先生之碑」と書かれ、百穂自筆の短歌二首が並刻されている。

うつろへる川の流れを見るにさへ
年ふりにけり国を出しより
ひとときに芽吹き立ち匂ふみちのくの
明るき春にあひにけるかも 百穂
碑陰には百穂の経歴と業績が記されている。
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