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公共文化施設:仙北市立角館樺細工伝承館

白岩焼の歴史

なまこ釉大すず 山手瀧治作白岩焼は、角館の工芸品の中で唯一、その創業と創始者が明らかな仕事です。それは明和8年(1771)、相馬大堀窯の陶工松本運七によってこの地にもたらされました。この開窯には角館の武士小高蔵人・蓮沼市左衛門・宮崎善四郎と肝煎伝右衛門の4人が取立人として大きく関与し、また運七の直弟子としては山手儀三郎・千葉伝九郎・菅原助左衛門・多郎助が他言無用の起請文を差し出して入門、ここに白岩焼の第一歩が記されることとなりました。

その後運七は他郷に移り、安永4年(1785)には儀三郎がその跡を継ぎ窯主となりました。天明5年(1785)、2窯目の吉五郎窯が開き、また翌年には儀三郎が京にのぼり、京焼・楽焼・陶画を修行し帰郷しました。白岩焼も開窯から10年余りが過ぎ、その技術や経営がいよいよ軌道に乗って本格化し、藩政期はこの儀三郎・吉五郎の2窯時代が長く続くこととなりました。

初期には藩主への献上品や御台所の註文、歳暮等の贈答品を作っていましたが、次第に民間の需要が増大し、これに伴い幕末期には勘左衛門・孫兵衛・多市郎・吉重郎窯と開窯し、白岩焼の最盛期が現出しました。製品はカメやスズを中心に多種にわたり、それらは周辺町村は勿論のこと県内外に大量に販売され、各地に問屋が出来て広く取引されるようになりました。

白岩焼は開窯順にイ・ロ・ハ・ニ・ホ・窯と呼び慣わしますが、この6窯時代になると刻印を押した製品が見られるようになります。元来、刻印は何軒かの窯元が共同窯を使用する際に、その識別のため製品や窯道具に付けた印ですが、急速な発展を遂げ全盛期を迎えた白岩焼でも、窯毎の製品を区別する手段として、またいわば商標的な意味合いでこの刻印を使用したものと思われます。当時の東北の焼き物では刻印の使用例は非常に珍しいことのようで、何かそこには自作に対する責任と陶工としての誇りさえ感じられます。

二瀧の刻印を使用した山手瀧治は、この時代に活躍した白岩焼き最後の名工です。瀧治は伝統的な海鼠釉を始め、飴釉・黒釉・緑釉・青瓷等様々な色を操り、形も瓢形・砧形・丸形・角形と変化させ、白岩焼が持っている可能性を最大限に追求しました。その遺品はカメ・ツボ・ スズ・皿から植木鉢・手焙り・蒸留器・香炉・花立と多彩を極めました。

しかし栄華を誇った白岩焼きも、明治以降は藩の庇護も断たれ、さらに磁器の流入や濁酒禁止令がこの仕事を圧迫していきました。そして明治29年(1896)に起こった大地震が登り窯に決定的な打撃を与え、明治33年(1900)、ついに130年にわたった陶業史に終止符を打つことになるのでした。

中断から100年近くたった現在、白岩の地に新しい烟が上がっています。昭和49年、再興を目指した1人の女性と益子焼の濱田庄司の出会いがそのきっかけでした。ここでも民芸と角館の工芸品が結びついて新たな展開をみせました。以降20年余り、その烟は3つに分かれ、あの力感あふれる海鼠釉の製品が現代に蘇っています。


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