樺細工の歴史

角館が芦名義勝によって城下町形成されてからほぼ380年、この間武家社会では学問や芸術、さらに武芸などが花開きましたが、 他面、角館は周辺の農村部を巻き込んだ一大商業 圏の中心地としての繁栄もみ、各種の産業や白岩焼・イタヤ細工・角館春慶などの手仕事の発展も促しました。

藤村彦六作と伝えられる「鞘入三段印籠」

昭和前期までは多くの手仕事が生活と密接に結びつき、連綿と技の伝承がなされましたが、その後、 後継者不足や材料の枯渇、また時代の趨勢に抗しきれずに廃業の憂き目に遭遇した手技も 少なくはありません。そうした中、今日までしっかりと した足取りで歩いてきた仕事に樺細工があります。

樺細工が角館に伝播したのが今から220年ほど前の天明年間。秋田県北部の山間の町、合川町鎌沢の神官御処野家より角館の武士藤村彦六がその技を伝授されたことから始まります。藩政期には藩主や角館城代の手厚い庇護もあり、下級武士の手内職ではありましたが、侍らしく妥協を許さない一品入魂の作風を厳守しました。当時の作り手としては石黒勘左衛門や下田勘助が著名で、 印籠・朱肉入・眼鏡入・根付・緒締などの製作を手がけました。

明治に入ってからは、有力な問屋の出現が樺細工を安定した産業に導いていきました。特に丸亀こと長松谷商店は販路拡張、製品の大量生産化、工具の改良などを通して産業の底上げを図りました。 また、同商店の職人だった経徳斐太郎・黒沢清太の両名も、雇主の意をよく体し新製品開発に没頭、 明治30年頃には胴乱(煙草入)主体の製品体制の中に、大型の文庫や硯箱などの「木地もの」 という技法を導入し、樺細工製品の可能性を広げました。いずれにしろ、この明治中期は伝統から創造性への一大転換期になった時代でした。

この後に出現した小野東三は、こうした時代の 空気を感じとり、その新技術を完成させました。彼はまた優秀な弟子の育成にも腕をふるい、その八面六臂の活躍で樺細工中興の祖と崇められている大人物です。東三が生きた明治後期から昭和前期にかけては、皇室献上品製作や各種展覧会入賞の名誉を数多く受け、製作品も家具調 の大型のものから輸出向けのシガレットケース・ナプキンリングなど多種多様にわたり、ここに樺細工の円熟期を迎えることとります。

しかし絶頂期のこの時、創造に向かうあまり、ともすると樺細工の持ち味や本質を見失いがちになる傾向に、楔を打った人物がいました。その人の名は柳宗悦。この民芸の神様と樺細工の出会いは、もう一度原点に立ち返った樺細工製作を喚起させました。柳思想の実践は、昭和17年の日本民芸館における樺細工伝習会から始まり都合3回、小野東三をはじめとしてその門下の佐藤省一郎・菅原二郎・田口芳郎・小柳金太郎の5人がその薫陶を受けました。折しも戦争まっ只中の暗澹たる時代ではありましたが、樺細工界にとっては正に真実の光が差し込んできた瞬間でした。

けれども残念ながら、この樺細工と民芸の密月は長く続きませんでした。戦後、職を失った復員兵などが樺細工のにわか職人となって粗悪品を濫造し、評価をおとしめ、柳のめざした理想はこっぱみじんに砕け散り、業界に不況の波が押し寄せたのでした。伝習会経験の職人な どに冬の時代が訪れましたが、彼らは樺細工復興のために、それまで培ってきた技術や精神を見失うことなく仕事に精進しました。

逆境時においても地道に伝統の技を死守してきた職人たちの努力は、やがて昭和40年代になると民芸ブームや本物志向、高度成長期の流れに乗って開花し、今日の隆盛につながりました。昭和51年には樺細工が通産大臣より伝統的工芸品の指定を受け、さらに同53年にはその殿堂たる角館町樺細工伝承館(現仙北市立角館樺細工伝承館)が開館しました。また、長く研鑽を積みこの仕事に精通している職人たちは、次々と現代の名工や伝統工芸士に認定されることとなりました。

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