明和の頃(1770頃)秋田の藩士で、すぐれた国学者として知られる益戸滄洲が、角館の学者の門弟の許を訪ねた際の形容の一節で、“千百の糸を垂れている桜はその長きこと百尺、霧を帯び雲を栽って下にむかう、恰も万片の雪が軽く綿の様に風前に舞い、又千仞の飛瀑が大空にひるがえって半天にかかる”(原文は漢文)とある。
この記は、東勝楽丁入り口西側にあった古梅津定右衛門屋敷内の枝垂桜を書いたものである。“長きこと百尺”という形容から想像される樹令は、おそらく100年は経過していると思われるため、佐竹北家が入部して「所預かり」となった明暦2年(1656)からほどなく桜を植えはじめたとみられている。角館のシダレザクラはこの風雪に耐え、町民が優しく気を配った貴重な遺産である。