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3町村の沿革
田沢湖町章
 田沢湖の一帯には多くの石器や土器、竪穴住居跡などが発見され、古代から狩猟や農耕を営む人々が住んでいたことがわかります。
 江戸時代に入り、慶長7年(1602年)、常陸(現在の茨城県)から秋田に国替えとなった佐竹氏が秋田六郡を領有すると、南部藩と秋田藩の国境の生保内に関所が設けられました。また、全国に誇る馬産地の形成も進みました。
 明治22年の市制・町村制施行により、生保内村、田沢村、神代村が生まれました。
 昭和15年、電源開発と農地開拓のため玉川の強酸性水を田沢湖へ導入。田沢湖の固有種とされるクニマスなどの魚が死滅しましたが、現在は、酸性水の中和処理事業により魚影もみられるようになっています。
 昭和31年9月、生保内町(28年町制)、田沢村、神代村の3町村が合併して「田沢湖町」が誕生し、今日に至っています。
角館町章
 角館町は城下町として発展してきました。仙北、北浦地方では応永年間(1394〜1428年)頃より戸沢氏が勢いを増し、戸沢盛安の代には豊臣秀吉から角館の地に4万4千石の大名として認められました。関ケ原の戦い後の大名配置により戸沢氏は常陸へ(後に新庄へ)、秋田には佐竹義宣が入り、角館にはかつて会津の雄であった名族芦名義勝(佐竹義宣の弟)が佐竹氏より1万5千石を与えられ治めることになりました。芦名氏は新しい城下町建設に取り組み、武家町と町人町に分けられた町並みは380年余りを経た現在もほとんど変わっておりません。その後、芦名氏は3代で断絶し、佐竹義隣(佐竹北家)が所領として入部し、幕藩体制の終わる明治まで佐竹氏の時代が11代2百年余り続きました。
 明治22年の市制・町村制施行により、角館町、中川村、雲沢村、白岩村が生まれ、昭和30年に4町村が合併して「角館町」が誕生し、今日に至っています。

西木村章
 安貞2年(1228年)、門屋に城を築いた戸沢氏は、その後、応永30年(1423年)、角館に入城し、慶長7年(1602年)、21代戸沢政盛のとき関ケ原の戦いの功績で外様大名から譜代大名に格上げされ、常陸へ(後に新庄へ)移るまで、約4百年に渡りこの地域一帯を治めてました。戸沢氏の伝統は「戸沢ささら」として伝承されています。
 江戸時代に入り桧木内地域から阿仁地域にかけて多くの鉱山が採掘されましたが、上桧木内地区に伝わる小正月の伝統行事「紙風船上げ」は、安永2年(1773年)、当時の秋田藩から鉱山指導に招かれた平賀源内が伝えたものと言われています。
 明治22年の市制・町村制施行により、西明寺村と桧木内村が生まれ、昭和31年9月、この2村が合併して「西木村」が誕生し、今日に至っています。